心に残る葬儀関連「コトノハ」
葬儀にまつわる言葉をご紹介します。
一人の人間が生きたということは、さまざまな人間と関係を結んだということである。葬式には、その関係を再確認する機能がある。その機能が十分に発揮される葬式が、何よりも一番好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら、誰もがあげてみたいと思うに違いない。
・・・・島田裕己「葬式は要らない」から
毎日、毎日、死者ばかり見ていると、死者は静かで美しく見えてくる。それに反して、死を恐れ、恐る恐る覗き込む生者たちの醜悪さばかりが気になるようになってきた。驚き、恐れ、悲しみ、憂い、怒り、などが錯綜するどろどろとした生者の視線が、湯灌をしていると背中に感じられるのである。
・・・・青木新門「納棺夫日記」より
「何でこんなことをするの?」「さあ、知りません」「いつから始まったの?」「さあ、ずっと昔からです」「何のご利益があるの?」「さあ、聞いたことがありません」・・・というふうに、起源に遡行すると、最後にはすべてが闇の中に消えてしまう。でも存在している。起源をたどることが出来ないけれども、現に存在しているある種の何だかわからないもの。僕はこういうものに対して人間はもっと畏れの気持ちを持つべきだと思います。
・・・・内田樹「現代霊性論」から
一人の人間が生きたということは、さまざまな人間と関係を結んだということである。葬式には、その関係を再確認する機能がある。その機能が十分に発揮される葬式が、何よりも一番好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら、誰もがあげてみたいと思うに違いない。
・・・・島田裕己「葬式は要らない」から
自分と関係した人の死は、他人事ではない。人の死はその人との人間関係が希薄であれば、それはあくまで他人事に過ぎない。だが、濃密な人間関係を作ってきた者同士であれば、それは確実に自分の一部の死でもあるのだ。だから、親しい、身近な者の死による喪失は痛い悲しみを伴うのだと思う。
・・・・碑文谷創「「お葬式」はなぜするの?」から
人間が悲しみ、悼むのは、愛する存在を喪ったからであり、人間が愛するということを知るものである以上、喪う悲しみは避け得ないことなのである。
・・・・碑文谷創「「お葬式」はなぜするの?」から
死に多様なドラマがあるように、そのドラマを背景に執り行われる葬式もまた固有のものになるのは必然である。
・・・・碑文谷創「「お葬式」はなぜするの?」から
一人の人間の終わりは「死」ではない。人間の死は医師が死亡宣告をすることで確認されるわけだが、それですべてが終わるわけではない。その後がある。葬儀とは葬送儀礼の略だが、そのいのちを丸ごと抱え込むようなものが、葬儀には伴っている。
・・・・碑文谷創「新・お葬式のお作法 遺族になるということ」より
「迷惑をかけたくない」とする人は、一人称の目だけで死を見ているのではないだろうか。遺される家族の目で見ているだろうか。家族を喪失すれば、悲しみ、嘆くのは人間として当然のことである。その絆が喪われるからだ。絆があればこそ、悲しみ、嘆き、弔おうとするのである。であるならば、弔いというのは遺された者の「義務」というよりも、「権利」というべきであろう。
・・・・碑文谷創「新・お葬式のお作法 遺族になるということ」より
最近では「納棺師」になりたいという若い人が増えているようです。映画の中に出てくる故人は美しかったですが、いつもそうとは限らないのです。若い人が葬祭の仕事に理解を示すのはいいと思いますが、一時のブームにのって門を叩くのではなく、相当の覚悟を持って納棺師になってもらいたいものです。
・・・・田島エリコ「私のお葬式」より
エコロジーや「もったいない」はブームですが、お葬式においてもその意識がゆっくりと入り込んでいる感じがします。それはいい面もありますが、「簡素」「便利」が優先されるあまり、亡き人を悼むという心がどこかに置き去りにされてしまうのではないかと思うときがあります。
・・・・田島エリコ「私のお葬式」より
これから、私たちよりももっと若い世代、インターネット世代とでもいう人びとが喪主になる時代がやってきます。どのようなお葬式になるのかわかりませんが、メールでお葬式 あるいは火葬だけを依頼して、葬祭業者にまかせっぱなしにして、
“終わりました”という画像を送ってもらうとか、そんな時代になるのでしょうか。
・・・・田島エリコ「私のお葬式」より
お葬式は、亡くなった人の人生にかかわった人たちに最後のお別れの場を提供するという役目があると考えたら、直葬ではかわいそうだと思います。亡くなった人はもちろん、かかわった人たちもかわいそうです。家族は自分達の都合でお葬式のやり方を決めるのではなく、故人の視点でものを見ないといけないのではないでしょうか。その人の一生の終わりをどうしてみんなで見送ってあげないのか、家族が閉ざしてしまうのでしょうか。
・・・・田島エリコ「私のお葬式」より
お葬式の本来の目的である「心のケア」を否定する人はいないはずです。それなのに、いま多くの人が「お葬式なんて大変だ」「したくない」と思ってしまうのは、本来の目的がないがしろにされて、手段であったお葬式が目的にされているからです。
・・・牧野 恭仁雄「納得いくお葬式は20万円からできる」から
私たちは必ずいつかは旅立つのであり、その時期も場所も自分で決められないのですから、お葬式に関して希望があるなら、その話タブーにするのはおかしいのです。最近では、日常会話の中で「こんなお葬式がいいね」と明るく話す人も増えているのは良いことで、そういう話が出来ることこそ幸せなことなのです。そうしてこそ、世の中にいろいろな形のお葬式が広まるはずです。
・・・・牧野 恭仁雄「納得いくお葬式は20万円からできる」から
この世でもっとも不幸なことは、だれが死んでも悲しくない、つまり大切な人がいないことでしょう。大切な人を失った悲しみが大きいほど、自分が幸福であったことの証しです。
・・・・牧野 恭仁雄「納得いくお葬式は20万円からできる」から
死は悲しみを突き付けるが、遺された者が死者と深い係わりがあったからこそ突き付けられる事実である。愛する者の死であれば、その別れは自らの身を引き裂くような悲しみを引き起こす。その死別の痛みの中に愛があり生がある。
・・・・碑文谷創「死に方を忘れた日本人」から
家族を亡くした者にとってもっとも必要なことは、まず自分の感情を正直に味わうことでしょう。この感情を味わうことなく、お葬式で追いまくられてしまう人も多いのですが、家族を失った直後に感情を味わうことがなければ機会を失い、家族の死が自分にとって何だったのかが分からずじまいになってしまいます。だからこそ、家族だけの静かなお通夜、葬儀というのはとても大切なものなのです。
・・・・牧野 恭仁雄「納得いくお葬式は20万円からできる」から
現在は、死に対する人々の意識が変わりつつある転換期である。死を忌み嫌うべきものとして暗闇に封じこめるのではなく、「生きるとは」「いのちとは」という本質的な問題を考え、人生でいちばん大事なものは何かを考える契機として、死を表に出して真正面から見つめようとする人々が多くなりつつあるようだ。死を考えるとは、生を考えることだ。死を語るとは、いかに生きるかを語ることだ。
・・・・柳田邦男「死を創る時代」を生きた佐藤記者
納棺師として私がご遺族からいただく「ありがとう」もあれば私自身が深い感謝の気持ちに包まれる「ありがとう」もあります。また、亡くなった故人が生前に遺族へ残した「ありがとう」や、来世へ旅立ってゆく故人に遺族が口にする最後の「ありがとう」もあります。どの「ありがとう」も、愛する人への精一杯の気持ちが込められている尊い言葉です。
・・・・槇村聡「おくりびとが流した涙」より
大切な人を亡くしたとき、もう二度と立ち直ることなんかできないと人は思うものです。でも、人はそれほど弱くはありません。時の流れは、ときに残酷ですが、ときに人に優しくなります。時間の経過とともに、きっとすこしずつ悲しみが薄れ、いつかは心の傷が癒えて笑える日が来るのです。人間とはもろくて弱い生き物であると同時に、強くてたくましく、したたかな生き物でもあるのです。
・・・・槇村聡「おくりびとが流した涙」より
年間200人近いご遺体と対面していると、中には身寄りのない方の死とも遭遇することがあります。死んだことすら誰にも気づいてもらえずに、ひっそりと火葬場へ運ばれていく寂しさ・・・・・・。そういう場面を見るたびに、大切に思ってくれている人たちが、心から別れを悲しんでくれることは、一つの「幸せな結果」だと考えていいのでは、と思えてしまうのです。
・・・・槇村聡「おくりびとが流した涙」より
現場で伝わってくる悲しみを自分自身の中に受け入れながら、ご遺族が故人を旅立たせるためのお手伝いを精一杯する。そのためにひとつひとつの作業に真心をこめる。私たち納棺師の仕事は、ご遺族の悲しみを感じるからこそ出来る仕事なのかもしれません。
・・・・槇村聡「おくりびとが流した涙」より
身内の死という深い悲しみがほんのわずかでもやわらぎこれからご遺族が生きていかれるうえでの力にほんのわずかでもなれるのであれば、私たちがするこの仕事も意味があるのではないかと思うのです
・・・・槇村聡「おくりびとが流した涙」より
「幸せな死」とは何か。改めて考えてみる。どこで、誰と、どのように残された日々を過ごすのかを自身で選び取ることによって自分の望む終末期を迎える。そういうことなのかもしれない。
・・・・國森康弘「家族を看取る 心がそばにあればいい」より
人間には、死を受け入れる時期がそれぞれにある。告知によって無理に受け入れさせなくても、希望を見詰め精一杯に生きながら、いつかは万人に来るその時期を静かに待つことを支えることが大切だろう。
・・・・國森康弘「家族を看取る 心がそばにあればいい」より
旅立ちの近い本人にとっては、実は、「病・老・死」はもはや苦ではなく、新たな幸せへの一歩かもしれないと想像してみることも必要ではないだろうか。
・・・・國森康弘「家族を看取る 心がそばにあればいい」より
死者の顔はみんな同じように安らかな相をしている。死んだままの状態の時などは、ほとんど眼は半眼の状態で、よくできた仏像とそっくりである。
・・・・國森康弘「家族を看取る 心がそばにあればいい」より
死には「暗い」「つらい」「苦しい」といった印象がつきまとう。しかしその一方で、笑顔で旅立ち、いつまでも続く幸福感とあふれんばかりの生命力を家族に手渡す死がある。「そんな死に方は、まれ」と一笑に付されるかもしれないが、その気になれば実は、多くの人にとって可能だ。方法は、本人の望む死に方をまっとうするために家族が支える。ただそれだけと言ってもいいだろう。
・・・・國森康弘「家族を看取る 心がそばにあればいい」より
「あの人は亡くなったが、多くの人の心の中に、今も生きている」という言葉を、私自身はあまり口に出したことはなかったが、確かにそうした現実もあることを、このごろ改めて思い返している。
・・・・三浦光世「死ぬという大切な仕事」より
あなた自身の関係のお葬式はいわずもがなですが、故人の顔を遺影写真で初めて見るような縁が薄いお葬式でも静かに手を合わせ、「ありがとうございます。安らかにお休みください」と心の中で語りかけてみてください。いろんなご縁が繋がりあって、今の自分があるんだということが強く感じられるはずです。
・・・・市川愛「お葬式の雑学〜意外と知らない「死」のマナー〜」より
ヒトは葬儀をされることによって初めて「人間」になるのではないでしょうか。ヒトは生物です。人間は社会的な存在です。葬儀に自分のゆかりのある人々が参列してくれて、送ってもらう――それで初めて、故人は「人間」としてこの世から旅立っていけるのではないでしょうか。
・・・・一条真也「葬式は必要! 最後の儀式に迷う日本人のために」
「喪失の経験がつらいのは、同じ時間と経験を共有しただれかが、その死ごと記憶をあちら側へ奪い去ってしまうから。記憶とは、そのひとのなかに自分が生きているということだから、そのひとの記憶のなかに生きていた自分の大切な部分をもぎとられてしまう。それはとりかえしのつかない喪失だ。埋めようと思っても埋めあわせすることのできない欠落感が生まれる。
・・・・上野千鶴子「おひとりさまの老後」より
「ひとは死んでなにを遺すか?モノは散逸し、無くなり、腐る。不動産は人手にわたる。最後に遺るのは、残されたひとびとのうちにある記憶である。ひとは死んで、残った者に記憶を残す。そして記憶というのは、それをもった人が生きているあいだは残るが、そのひとたちの死とともにかならず消えてなくなる運命にある」
・・・・上野千鶴子「おひとりさまの老後」よ